ピアニスト後藤・イシュトヴァン・宏一「21世紀型ピアノレッスン」
Information
2024.03.04.皆様へ重要なお知らせです。
2024 Gyula Kiss & Friends (ジュラ・キシュ & フレンズ) Vol.6 中止のお知らせ
体調不良のため、ジュラ・キシュの来日が中止になりました。 尚、演奏会の返金行います。弊社からの連絡をお待ち下さい。また、第13回ジュラ・キシュ国際ピアノコンクールは続行されるそうです。 私たちがファイナルまで来られた方々を審査致します。その後、我々3名の審査委員の合計得点、2日間の動画をジュラ・キシュ先生に聴いて頂いて、判断してもらう方法になりました。
2022 横浜国際アーティスト教育協会主催 ジュラ・キシュ マスタークラス in 横浜
皆様のご協力、また熱意のおかげで素晴らしいマスタークラスになりました。 ジュラ・キシュ教授はとても満足されていました。 マスタークラスに関わった全ての方々に感謝致します。2022 横浜国際アーティスト教育協会主催 ジュラ・キシュマスタークラス IN 横浜 開催のお知らせ
開催日時:2022年8月19日(金)9時開始
開催場所:ラフィネ横浜Cルーム
交通アクセス:https://raffine-studio.com/
受講料:1レッスン 30,000円(通訳込)
定員:空き2名 ⇒ キャンセル待ち
主催:一般社団法人 横浜国際アーティスト教育協会
開催場所:ラフィネ横浜Cルーム
交通アクセス:https://raffine-studio.com/
受講料:1レッスン 30,000円(通訳込)
定員:
主催:一般社団法人 横浜国際アーティスト教育協会
後藤・イシュトヴァン・宏一が教える「21世紀型ピアノレッスン」
F.ショパン、F.リスト、B.バルトーク直系の弟子
後藤・イシュトヴァン・宏一
ピアノを演奏する、という行為は人それぞれに意味があると思う。
僕にとってそれは、2011年3月11日の震災、そしてその年の6月28日に親友が逝ってしまってからは、それまでの意味とは違うものとなったのは確かである。演奏法に大きく変化が生じている訳ではない。演奏法が大きく変わったのは1989年ハンガリーに留学した時だった。もっと正確にいうのなら、ピアノ演奏への考え方が変わったということになる。 但し、社会主義のハンガリーに行って最初に感じたこと、思い出したことは意外なことだった。僕のゼネレーションは団塊の世代という人たちを初等教育から大学までの期間、先生と呼ばなくてはいけなかった。首都ブダペシュトに数日いるだけで頭を駆け巡ったのは、1970年代、作家、三島由紀夫と学生たちのやりとりだった。社会主義のどこが、皆等しく生活しているか、であった。そこにはハッキリとした不平等の世界があった。 演奏も社会もバランスを取るということがいかに難しいことなのか、たった数日で感じた。 そんな中でも美しいものに対して自然に美しいと言えたことが不思議であった。そもそも入れ物としての社会や主義とは関係なく、ドナウ川は流れていたし、向日葵も咲いていた。
僕は知っている。ピアノを演奏するだけで心が癒される人々が世界中に存在することを。
だが、2011年にはその事すら気付けなかった。ピアノというものに関わって来たのに、何の役にも立たない、と思い悩んだ。この経験は初めてのことではなかった。 1995年1月にも同じ感覚に苦しめられた記憶がある。 我々は誰でも、時を刻むという感覚を持っている。そのため、その時が流れることによって、たとえ歴史を変えることが出来なくとも、自己治癒作用や、外部からの何らかの働きによって傷が癒されてくることも知っている。
ピアノ演奏をするだけではなく、「ピアノとは」ということを深く研究している人も沢山存在している。現在のピアノという形になるまでのことを追及している人たちである。これらの人々の価値は膨大なものと思える。ギリシア語の語源まで遡り、チェンバロになってピアノフォルテもしくはフォルテピアノという楽器になるまでには楽器自体の歴史だけではなく、ヨーロッパ史ももれなく付いてくる。その背景と共に歩んで来たピアノの初期の頃の仕組みがあり、その楽器に相応しい曲を作ろうと作曲家は奮闘し、それはピアノの歴史と共に起こったことは容易に考えられる。
沢山の作曲家が存在した。その人数分の宇宙があった。
その無数の宇宙の中で生死の繰り返しがあった。
傷付き、癒されることが数え切れないほど起こった。
ある者はそれを楽譜に刻み込み、ある者はその痛みを癒すためにあえて楽譜と融合させなかった。
風景として楽譜に書き込んだ者もいた。言語の代わりに音を使ってラブストーリー、喜劇、悲劇を表した無数の宝物が現存し、未だ遭難した船が深海深くに眠っていて、その中の最も静かな場所に密かに僅かな光を放出しながら存在している物もある。
沢山の宇宙の中から、一つを取り出し、自分の目でじっくり眺め、聴覚を研ぎ澄ませ、ある時は望遠鏡を使い、ある時は顕微鏡を使いその宇宙を感じ取ろうとしている。
この作業を行っているのがピアニストと呼ばれる者なのだろう。
僕にとってそれは、2011年3月11日の震災、そしてその年の6月28日に親友が逝ってしまってからは、それまでの意味とは違うものとなったのは確かである。演奏法に大きく変化が生じている訳ではない。演奏法が大きく変わったのは1989年ハンガリーに留学した時だった。もっと正確にいうのなら、ピアノ演奏への考え方が変わったということになる。 但し、社会主義のハンガリーに行って最初に感じたこと、思い出したことは意外なことだった。僕のゼネレーションは団塊の世代という人たちを初等教育から大学までの期間、先生と呼ばなくてはいけなかった。首都ブダペシュトに数日いるだけで頭を駆け巡ったのは、1970年代、作家、三島由紀夫と学生たちのやりとりだった。社会主義のどこが、皆等しく生活しているか、であった。そこにはハッキリとした不平等の世界があった。 演奏も社会もバランスを取るということがいかに難しいことなのか、たった数日で感じた。 そんな中でも美しいものに対して自然に美しいと言えたことが不思議であった。そもそも入れ物としての社会や主義とは関係なく、ドナウ川は流れていたし、向日葵も咲いていた。
僕は知っている。ピアノを演奏するだけで心が癒される人々が世界中に存在することを。
だが、2011年にはその事すら気付けなかった。ピアノというものに関わって来たのに、何の役にも立たない、と思い悩んだ。この経験は初めてのことではなかった。 1995年1月にも同じ感覚に苦しめられた記憶がある。 我々は誰でも、時を刻むという感覚を持っている。そのため、その時が流れることによって、たとえ歴史を変えることが出来なくとも、自己治癒作用や、外部からの何らかの働きによって傷が癒されてくることも知っている。
ピアノ演奏をするだけではなく、「ピアノとは」ということを深く研究している人も沢山存在している。現在のピアノという形になるまでのことを追及している人たちである。これらの人々の価値は膨大なものと思える。ギリシア語の語源まで遡り、チェンバロになってピアノフォルテもしくはフォルテピアノという楽器になるまでには楽器自体の歴史だけではなく、ヨーロッパ史ももれなく付いてくる。その背景と共に歩んで来たピアノの初期の頃の仕組みがあり、その楽器に相応しい曲を作ろうと作曲家は奮闘し、それはピアノの歴史と共に起こったことは容易に考えられる。
沢山の作曲家が存在した。その人数分の宇宙があった。
その無数の宇宙の中で生死の繰り返しがあった。
傷付き、癒されることが数え切れないほど起こった。
ある者はそれを楽譜に刻み込み、ある者はその痛みを癒すためにあえて楽譜と融合させなかった。
風景として楽譜に書き込んだ者もいた。言語の代わりに音を使ってラブストーリー、喜劇、悲劇を表した無数の宝物が現存し、未だ遭難した船が深海深くに眠っていて、その中の最も静かな場所に密かに僅かな光を放出しながら存在している物もある。
沢山の宇宙の中から、一つを取り出し、自分の目でじっくり眺め、聴覚を研ぎ澄ませ、ある時は望遠鏡を使い、ある時は顕微鏡を使いその宇宙を感じ取ろうとしている。
この作業を行っているのがピアニストと呼ばれる者なのだろう。