ピアニスト後藤・イシュトヴァン・宏一「21世紀型ピアノレッスン」
ピアノの歴史
ピアノという楽器のことを話す前にその前身であったチェンバロの知識が多少必要である。
チェンバロとはピアノがハンマーによって叩かれて音を発音するのとは違って、鳥の羽軸を加工した爪で弦をはじくことによって音を出す鍵盤楽器である。イタリア語ではクラヴィチェンバロとよばれ、ドイツ語ではキールクラヴィーア、あるいはキールフリューゲルともいう。フランス語のクラヴサン、英語のハープシコードもチェンバロと同じものを指している。チェンバロという言葉の由来は、ギリシア語のキンバロムから来ている。これが時代を経てラテン語でキュンバルムと言われるようになった。さらに時代を経てイタリア語風に言った(訛り、方言)ものがチェンバロという言葉に定着したと思われる。
キュンバルムまたはツィンバルムというラテン語の呼び方はおもに2種類の楽器の意味を持っていた。一つはシンバルのような打楽器である。もう一つはプサルテリウムやダルシーマなどと呼ばれる弦楽器になる。この弦楽器は、音がある程度響く箱に弦を張ったもので構造はいたって簡単なものであった。その張られた弦をはじいたり、軽く叩いたりして音を出した。
現代では、はじく方をプサルテリウム、叩く方をダルシーマと呼んで区別されている。21世紀の現在でもコンサートやコンクールで演奏されているハンガリーの民族楽器、ツィンバロンはダルシーマの方に分類されることになる。ハンガリーを代表する作曲家コダーイ作曲のハーリーヤーノシュでのツィンバロンはなくてはならない楽器として演奏されている。18世紀には鍵盤楽器と称される楽器が混在していた。パイプオルガンを除いて有弦鍵盤楽器だけをあげても、チェンバロ、クラヴィコード、そしてピアノ(ピアノの前身楽器)が存在していた。ある時はクラヴィコードと呼ばれ、ある時はチェンバロと呼ばれていた。バルトロメオ・クリストフォリという天才的な楽器製造職人が1655年に誕生してピアノを発展させて行くことになった。クリストフォリのピアノを指して用いた「グラーヴェチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ」、同時代のイタリア地方で用いられた「クラヴィチェンバロ・ア・マルテリーニ」(小さなハンマー付きのチェンバロ)、「ピアノ・エ・フォルテ」「ピアノ・フォルテ」「フォルテピアノ」などと色々な呼び名になっていた。「ピアノフォルテ」はかなり広範囲につかわれていた。この呼び名は19世紀になってもかなりの頻度で使われ続けた。
21世紀の現在に於いて、日本ではこれらの楽器はピアノという名前で一括りにされているが、そこに至るまでの経緯は様々なものがあり、ピアノがただのピアノフォルテの略語であると考えてはならない。
また、日本のクラシック音楽文化において、ギリシアから始まりローマで発展したという歴史の認識や感覚が大いに欠けているため、色々な弊害が起きている。
ただし、ヨーロッパ文化を「動」と、日本文化を「静」と置き換えた場合、これをクラシック音楽に融合させることは今世紀において、大きな価値をもたらすと確信している。
また現在において、ピアノをpfと略記するのが慣例になってしまっているため、その複雑な歴史的背景がある、ということに対して、一部の古楽器専門の学者以外は単に「フォルテピアノ」と呼ばれた時期があったという認識にとどまってしまっている。ただ歴史的資料を詳細に見ていくと、「フォルテピアノ」という言葉が18世紀後半までは広く用いられて、その名前が複雑にかつ絶対的ではなかったことが明確に理解出来る。C・P・E・バッハやテュルクなどが後世に残した理論書では、一貫して「フォルテピアノ」が用いるのも興味深い事実であり、各国の資料、イギリスの資料でもこの語を使われていることがわかる。19世紀になると、ドイツ、オーストリアでは「ハンマークラヴィーア」と呼ぶ音楽家が多数を占めて来る。しかしウィーンなどの楽器製作家などは「フォルテピアノ」という名前を使用し続けた。現在、ピアノと呼ばれるようになるまでには、単に言葉の歴史的流れではなく、楽器製造、それを演奏した音楽家、ヨーロッパの歴史の流れがもの凄く関わっていることを知っておく必要があるし、それはピアノ演奏をする上でプラスになることはあっても決してマイナスになることはないのである。ここでは、大きく省いてしまったが、チェンバロにも当然、純正律、平均律に対しての深い歴史もあり、単に弦をはじいていたのがチェンバロ、クラヴィコードという知識だけではピアノという楽器を知る上では全く知識が足りないというばかりではなく、バロック期の作品を演奏することが困難になってしまう、とまで言っても過言ではない。
チェンバロを発明したのはオーストリアのヘルマンポール(1397年)であると言われている。しかし、チェンバロの内部構造、振導体(饗板)、そして各国で作られた経緯、天才ルッカース、などの話だけでも何冊もの書籍になってしまう。J・S・バッハについての「クラヴィーア」はかなり重要なことであるのは間違いない。バッハが設計、調整をした頃までの「クラヴィーア」という楽器に到達するまでに200年という時を要した。呼び名、混在し、仕組みも様々に改良をされて来た。ただ、興味深いのはこのバッハの活動期に、現在のピアノの原型が発明されたということで、そのピアノはマジョリティーでは無かったということである。
現在のピアノ原点と言われる楽器を最初に発明されたのはイタリア、フィレンツェのメディツェ家に仕え宮廷の楽器調整、修理をしていた、バルトロメオ・クリストフォリ(1655年~1731年)の楽器で鍵盤は4オクターブだった。1700年ではまだピアノフォルテの完全な仕組みではなかったが26年後1726年に最初のピアノを完成することになる。
仕組みはまず、演奏者が鍵盤を押すと鍵盤の先に付いているジャックが上がり、ハンマーの中間部部分を押し上げ、ハンマーがそれに作用して跳ね上がり、ピアノに張られた弦を下からハンマーが打ち上げ、音を発音するという仕組みであった。この一連の動きの中にピアノフォルテの原型があった。ハンマーが弦を打つ、と簡単に言っているが、それまでに使用されていたハープシコードの弦では張力が弱すぎて、弦を持ち上げてしまう、という問題があったため、弦自体を強化する必要があったのは言うまではない。
演奏者が鍵盤を離した瞬間にそれまでに鳴っていた音を止める仕組み(ダンパー)、ハンマーがスムーズに元の位置に戻って来る流れを作るのには、相当な試行錯誤を重ねたことによって可能になったという点も理解する必要がある。テコの原理だけでは、鍵盤にたいしてのハンマーの動きが一律に動作することも問題点の一つだった。それらを解消させ、鍵盤とハンマーと弦の動きの中に、ジャックを用いて中間部分(ハンマーレバー)を仲介させることによって、直接、弦に触れるハンマーは間接的になったが、鍵盤を押し中間部分で2倍のスピードが生じ、弦に直接触れる側のハンマーに伝達される時には4倍のスピードになった。さらにクリストフォリは弦の位置を低くすることによって演奏者が鍵盤を弾きハンマーが跳ね上がる瞬間を最大8倍まで達成できることになった。ピアノフォルテ、ピアノ=弱い音、フォルテ=強い音が出せる楽器、でのフォルテを出せることに成功したことになる。
この成功はピアノという楽器の扉を開けたと言っても過言ではない。
ここからは1700年から1800年までの楽器の進化を見ていくことにする。
この100年間に現在クラシック音楽と呼ばれている基礎が出来たということもとても興味深い。J・S・バッハ以降、音楽史上最も天才と言っても良い、W・A・モーツァルト。ピアノの発展と同時に作品自体に影響を及ぼしたL・V・ベートーヴェン。そのベートーヴェンに反応したF・シューベルトたちがまさに基礎を造っていった。
1750年にJ・S・バッハが没し6年後1756年、W・A・モーツァルトが誕生し、14年後の1770年にL・V・ベートーヴェン、27年後にF・シューベルトが誕生する。
時代背景としての欧米諸国では歴史的な出来事が頻繁に起こっていた。1700年、北方戦争が勃発し、翌年の1701年にはスペイン戦争が起こった。1710年にはフランス、ヴェルサイユ宮殿が完成した。約30年後の1740年にはオーストリア継承戦争。前戦争の後オーストリアのマリア・テレージアがハプスブルク家を継承したために英、仏が敵対陣営に属した。その影響で1744年、北アメリカにおいてジョージ王戦争が起こった。
音楽の世界では1722年、J・S・バッハが「平均律クラヴィーア曲集・第一巻」が作曲され、1725年頃には「フランス組曲」が生まれたという、現代でいうバロック期になる。1732年にJ・ハイドンが生まれ、1741年、J・S・バッハは「ゴールドベルク変奏曲」42年頃、「平均律クラヴィーア曲集・第二巻」が作曲された。この時代、」J・S・バッハ中心に音楽の世界が回っていた訳ではなく、後にバッハがポリフォニー音楽を確立した、ということになるのだが、ピアノという楽器の存在はまだこの頃にはマイノリティーだったと言える。
ただ、初期のピアノにJ・S・バッハが接近した話が残っている。
その初期のピアノ制作に携わったのが、ゴットフリート・ジルマーマンという人物である。
彼はドイツで最も有名なオルガン製作者の一人であった。兄のアンドレアスとストラスブールで修行をしたのち、フランスに行ってオルガン制作に励んだ。1711年に活動の場所をドイツ、ドレスデンの近郊フライブルクに移動し、ピアノ制作を開始した。 これは仮説だが、1700年に発明されたクリストフォリのピアノアクションに関するマッフェイの論文ハンブルクの1722年から3年間、音楽評論家マティゾンによってドイツ語に翻訳され、「音楽評論誌」に掲載された。それをジルバーマンが読んだと思われる。また、ジルバーマンのピアノアクションがクリストフォリ1720年に改良型ピアノに酷似していたことをみると、「音楽評論誌」を参考にし、1720年改良型ピアノを実際に見た可能性が高いと考えるのが自然である。
ジルバールマンが幸運だったのは、プロイセンのフリードリッヒ二世がピアノに大変に興味をしめしたことであった。
J・S・バッハが1747年5月7日ポツダムのフリードリッヒ二世の宮廷に出向いたのは、大バッハの二男、C・F・E・バッハがフリードリッヒ二世のチェンバロ奏者として宮廷で活躍していて、1744年に二男のE・バッハは結婚をし、翌年に長男が生まれた。その孫に会いに行くためにE・バッハのところに大バッハが赴いたのである。当時、即興演奏の名手、ライプツッヒのトーマス教会合唱長の大バッハがベルリンの二男の家に来る、というニュースはすぐ宮廷にも知れ渡り、フリードリッヒ二世は大バッハに会いたくなり、ポツダムにあるサンスーシの離宮に大バッハを招待したのである。到着間もなく、大バッハはフリードリッヒ二世の自作の主題をもとにして様々な即興演奏を行ったのである。この時大バッハが使ったピアノは1747年、ジルバーマン制作のものであった。ここで沢山の即興演奏をしたものを、後にまとめてフリードリッヒ二世に献呈したものが「音楽の捧げもの」という傑作作品である。
大バッハがピアノを演奏したのは後にも先にもこの一度であるが、音自体は高く評価したものの、高音の響きの無さ、と鍵盤のタッチが重いと指摘したと言われている。この評価を謙虚に、重く受け止めたジルバールマンはさらに改良を重ねて磨きをかけた。ジルバールマンの死後、その技術はドイツでは発展せず、彼の弟子たちがイギリスに移入され、イギリス式アクションとして発展していくことになった。
モーツァルトの幼少期に前述したピアノの原型を使ったことは考えにくい。数々の文献、モーツァルトの手紙の中に出て来る楽器は、チェンバロに近い「クラヴィーア」を用いていた。モーツァルトが晩年、自分の作品を旧式のクラヴィーアより、新しく発明されたピアノ(現代ピアノからはほど遠い楽器)を好んで弾いたであろうという考えはあながち間違えではないだろう。200年以上栄えた「チェンバロ」「クラヴィーア」を軽んじるつもりは毛頭ない。それどころかバッハと「チェンバロ」「クラヴィーア」の密な関係を知らなければ、バロック期の作品の演奏が困難なことは事実である。
だが、ここでピアノの歴史を語っている意味は現代ピアノの演奏、指導法のためのものであるから、「クラヴィーア」の深く複雑な歴史は古楽器学者に任せることにする。ただ、古楽器の知識(構造、発音の仕組み、各国での違い)が全くない、というのは音楽史の理解を妨げるだけではなく、21世紀まで存在する各時代の傑作的な名曲を分析することが難しくなってしまうのは事実である。
モーツァルトは1777年10月の演奏旅行中に父、レオポルド宛てに送った手紙の中でヨハン・アンドレアス・シュタインという天才楽器製作家のピアノに触れた時のことを熱く語っている。それまで慣れ親しんでいたシュペートの楽器より優れているとハッキリ書いている。だがここで言っているピアノ、クラヴィーアは現代ピアノのではない。
現代のピアノ(アップライトピアノ、グランドピアノ)には2つ、もしくは3つのペダルが付いているが、この頃のピアノには音を伸ばす為のペダルは付いていなかったのである。その代わりに肘を用いて現代ピアノのペダルと同じことを行っていた。モーツァルトのいうペダルピアノとは、パイプオルガンのように、楽器の下に大型鍵盤のような、ペダルが付いていた。モーツァルト自身、ハ短調「幻想曲」 KV475の冒頭部分効果的に響かせるために、鍵盤とユニゾンでペダル鍵盤を使用した、とヨーゼフ・フランクという弟子がそのように弾いたモーツァルトの演奏を素晴らしかったと回想している。
色々と説明が入り組んで来たので、少しシンプルに説明をすることにします。
1742年、現存最古のスクエアピアノが制作される。
1760年、7年戦争の影響で、ザクセン出身のピアノ製作者たちがイギリス、ロンドンへ移住する。
1772年、イギリスでブロードウッド、ピアノ制作開始。
1776年、イギリス式アクション完成。
1777年、パリでエラールがピアノ制作開始。
1770年末から80年初頭までにかけて、ウィーン式ピアノアクションを完成。
1781年、ヴァルター、ウィーンにピアノ制作工房を開く。
1794年、N・シュトライヒャー、ウィーンでピアノ制作を開始。
1803年、エラールがベートーヴェンにピアノを献呈する。
1807年、パリのプレイエルがピアノ制作を開始。
1813年、ブロードウッド、ベートーヴェンにピアノを献呈する。
1821年、エラールがダブル・エスケープメント・アクション完成。
1825年、グラーフ、ベートーヴェンのピアノを制作する。
1828年、ウィーンでベーゼンドルファー創業。
1839年、プレイエル、ショパンのピアノを制作する。
1853年、アメリカ、ニューヨークでスタインウェイ設立。
1854年、ベルリン、ベヒシュタイン創業。
1883年、スタインウェイ、ドイツ、ハンブルク支店開始。
1897年、日本楽器制作株式会社(ヤマハ)設立。
1900年、ヤマハ、初のアップライトピアノ制作。
1902年、ヤマハ、国産グランドピアノ完成。
チェンバロとはピアノがハンマーによって叩かれて音を発音するのとは違って、鳥の羽軸を加工した爪で弦をはじくことによって音を出す鍵盤楽器である。イタリア語ではクラヴィチェンバロとよばれ、ドイツ語ではキールクラヴィーア、あるいはキールフリューゲルともいう。フランス語のクラヴサン、英語のハープシコードもチェンバロと同じものを指している。チェンバロという言葉の由来は、ギリシア語のキンバロムから来ている。これが時代を経てラテン語でキュンバルムと言われるようになった。さらに時代を経てイタリア語風に言った(訛り、方言)ものがチェンバロという言葉に定着したと思われる。
キュンバルムまたはツィンバルムというラテン語の呼び方はおもに2種類の楽器の意味を持っていた。一つはシンバルのような打楽器である。もう一つはプサルテリウムやダルシーマなどと呼ばれる弦楽器になる。この弦楽器は、音がある程度響く箱に弦を張ったもので構造はいたって簡単なものであった。その張られた弦をはじいたり、軽く叩いたりして音を出した。
現代では、はじく方をプサルテリウム、叩く方をダルシーマと呼んで区別されている。21世紀の現在でもコンサートやコンクールで演奏されているハンガリーの民族楽器、ツィンバロンはダルシーマの方に分類されることになる。ハンガリーを代表する作曲家コダーイ作曲のハーリーヤーノシュでのツィンバロンはなくてはならない楽器として演奏されている。18世紀には鍵盤楽器と称される楽器が混在していた。パイプオルガンを除いて有弦鍵盤楽器だけをあげても、チェンバロ、クラヴィコード、そしてピアノ(ピアノの前身楽器)が存在していた。ある時はクラヴィコードと呼ばれ、ある時はチェンバロと呼ばれていた。バルトロメオ・クリストフォリという天才的な楽器製造職人が1655年に誕生してピアノを発展させて行くことになった。クリストフォリのピアノを指して用いた「グラーヴェチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ」、同時代のイタリア地方で用いられた「クラヴィチェンバロ・ア・マルテリーニ」(小さなハンマー付きのチェンバロ)、「ピアノ・エ・フォルテ」「ピアノ・フォルテ」「フォルテピアノ」などと色々な呼び名になっていた。「ピアノフォルテ」はかなり広範囲につかわれていた。この呼び名は19世紀になってもかなりの頻度で使われ続けた。
21世紀の現在に於いて、日本ではこれらの楽器はピアノという名前で一括りにされているが、そこに至るまでの経緯は様々なものがあり、ピアノがただのピアノフォルテの略語であると考えてはならない。
また、日本のクラシック音楽文化において、ギリシアから始まりローマで発展したという歴史の認識や感覚が大いに欠けているため、色々な弊害が起きている。
ただし、ヨーロッパ文化を「動」と、日本文化を「静」と置き換えた場合、これをクラシック音楽に融合させることは今世紀において、大きな価値をもたらすと確信している。
また現在において、ピアノをpfと略記するのが慣例になってしまっているため、その複雑な歴史的背景がある、ということに対して、一部の古楽器専門の学者以外は単に「フォルテピアノ」と呼ばれた時期があったという認識にとどまってしまっている。ただ歴史的資料を詳細に見ていくと、「フォルテピアノ」という言葉が18世紀後半までは広く用いられて、その名前が複雑にかつ絶対的ではなかったことが明確に理解出来る。C・P・E・バッハやテュルクなどが後世に残した理論書では、一貫して「フォルテピアノ」が用いるのも興味深い事実であり、各国の資料、イギリスの資料でもこの語を使われていることがわかる。19世紀になると、ドイツ、オーストリアでは「ハンマークラヴィーア」と呼ぶ音楽家が多数を占めて来る。しかしウィーンなどの楽器製作家などは「フォルテピアノ」という名前を使用し続けた。現在、ピアノと呼ばれるようになるまでには、単に言葉の歴史的流れではなく、楽器製造、それを演奏した音楽家、ヨーロッパの歴史の流れがもの凄く関わっていることを知っておく必要があるし、それはピアノ演奏をする上でプラスになることはあっても決してマイナスになることはないのである。ここでは、大きく省いてしまったが、チェンバロにも当然、純正律、平均律に対しての深い歴史もあり、単に弦をはじいていたのがチェンバロ、クラヴィコードという知識だけではピアノという楽器を知る上では全く知識が足りないというばかりではなく、バロック期の作品を演奏することが困難になってしまう、とまで言っても過言ではない。
チェンバロを発明したのはオーストリアのヘルマンポール(1397年)であると言われている。しかし、チェンバロの内部構造、振導体(饗板)、そして各国で作られた経緯、天才ルッカース、などの話だけでも何冊もの書籍になってしまう。J・S・バッハについての「クラヴィーア」はかなり重要なことであるのは間違いない。バッハが設計、調整をした頃までの「クラヴィーア」という楽器に到達するまでに200年という時を要した。呼び名、混在し、仕組みも様々に改良をされて来た。ただ、興味深いのはこのバッハの活動期に、現在のピアノの原型が発明されたということで、そのピアノはマジョリティーでは無かったということである。
現在のピアノ原点と言われる楽器を最初に発明されたのはイタリア、フィレンツェのメディツェ家に仕え宮廷の楽器調整、修理をしていた、バルトロメオ・クリストフォリ(1655年~1731年)の楽器で鍵盤は4オクターブだった。1700年ではまだピアノフォルテの完全な仕組みではなかったが26年後1726年に最初のピアノを完成することになる。
仕組みはまず、演奏者が鍵盤を押すと鍵盤の先に付いているジャックが上がり、ハンマーの中間部部分を押し上げ、ハンマーがそれに作用して跳ね上がり、ピアノに張られた弦を下からハンマーが打ち上げ、音を発音するという仕組みであった。この一連の動きの中にピアノフォルテの原型があった。ハンマーが弦を打つ、と簡単に言っているが、それまでに使用されていたハープシコードの弦では張力が弱すぎて、弦を持ち上げてしまう、という問題があったため、弦自体を強化する必要があったのは言うまではない。
演奏者が鍵盤を離した瞬間にそれまでに鳴っていた音を止める仕組み(ダンパー)、ハンマーがスムーズに元の位置に戻って来る流れを作るのには、相当な試行錯誤を重ねたことによって可能になったという点も理解する必要がある。テコの原理だけでは、鍵盤にたいしてのハンマーの動きが一律に動作することも問題点の一つだった。それらを解消させ、鍵盤とハンマーと弦の動きの中に、ジャックを用いて中間部分(ハンマーレバー)を仲介させることによって、直接、弦に触れるハンマーは間接的になったが、鍵盤を押し中間部分で2倍のスピードが生じ、弦に直接触れる側のハンマーに伝達される時には4倍のスピードになった。さらにクリストフォリは弦の位置を低くすることによって演奏者が鍵盤を弾きハンマーが跳ね上がる瞬間を最大8倍まで達成できることになった。ピアノフォルテ、ピアノ=弱い音、フォルテ=強い音が出せる楽器、でのフォルテを出せることに成功したことになる。
この成功はピアノという楽器の扉を開けたと言っても過言ではない。
ここからは1700年から1800年までの楽器の進化を見ていくことにする。
この100年間に現在クラシック音楽と呼ばれている基礎が出来たということもとても興味深い。J・S・バッハ以降、音楽史上最も天才と言っても良い、W・A・モーツァルト。ピアノの発展と同時に作品自体に影響を及ぼしたL・V・ベートーヴェン。そのベートーヴェンに反応したF・シューベルトたちがまさに基礎を造っていった。
1750年にJ・S・バッハが没し6年後1756年、W・A・モーツァルトが誕生し、14年後の1770年にL・V・ベートーヴェン、27年後にF・シューベルトが誕生する。
時代背景としての欧米諸国では歴史的な出来事が頻繁に起こっていた。1700年、北方戦争が勃発し、翌年の1701年にはスペイン戦争が起こった。1710年にはフランス、ヴェルサイユ宮殿が完成した。約30年後の1740年にはオーストリア継承戦争。前戦争の後オーストリアのマリア・テレージアがハプスブルク家を継承したために英、仏が敵対陣営に属した。その影響で1744年、北アメリカにおいてジョージ王戦争が起こった。
音楽の世界では1722年、J・S・バッハが「平均律クラヴィーア曲集・第一巻」が作曲され、1725年頃には「フランス組曲」が生まれたという、現代でいうバロック期になる。1732年にJ・ハイドンが生まれ、1741年、J・S・バッハは「ゴールドベルク変奏曲」42年頃、「平均律クラヴィーア曲集・第二巻」が作曲された。この時代、」J・S・バッハ中心に音楽の世界が回っていた訳ではなく、後にバッハがポリフォニー音楽を確立した、ということになるのだが、ピアノという楽器の存在はまだこの頃にはマイノリティーだったと言える。
ただ、初期のピアノにJ・S・バッハが接近した話が残っている。
その初期のピアノ制作に携わったのが、ゴットフリート・ジルマーマンという人物である。
彼はドイツで最も有名なオルガン製作者の一人であった。兄のアンドレアスとストラスブールで修行をしたのち、フランスに行ってオルガン制作に励んだ。1711年に活動の場所をドイツ、ドレスデンの近郊フライブルクに移動し、ピアノ制作を開始した。 これは仮説だが、1700年に発明されたクリストフォリのピアノアクションに関するマッフェイの論文ハンブルクの1722年から3年間、音楽評論家マティゾンによってドイツ語に翻訳され、「音楽評論誌」に掲載された。それをジルバーマンが読んだと思われる。また、ジルバーマンのピアノアクションがクリストフォリ1720年に改良型ピアノに酷似していたことをみると、「音楽評論誌」を参考にし、1720年改良型ピアノを実際に見た可能性が高いと考えるのが自然である。
ジルバールマンが幸運だったのは、プロイセンのフリードリッヒ二世がピアノに大変に興味をしめしたことであった。
J・S・バッハが1747年5月7日ポツダムのフリードリッヒ二世の宮廷に出向いたのは、大バッハの二男、C・F・E・バッハがフリードリッヒ二世のチェンバロ奏者として宮廷で活躍していて、1744年に二男のE・バッハは結婚をし、翌年に長男が生まれた。その孫に会いに行くためにE・バッハのところに大バッハが赴いたのである。当時、即興演奏の名手、ライプツッヒのトーマス教会合唱長の大バッハがベルリンの二男の家に来る、というニュースはすぐ宮廷にも知れ渡り、フリードリッヒ二世は大バッハに会いたくなり、ポツダムにあるサンスーシの離宮に大バッハを招待したのである。到着間もなく、大バッハはフリードリッヒ二世の自作の主題をもとにして様々な即興演奏を行ったのである。この時大バッハが使ったピアノは1747年、ジルバーマン制作のものであった。ここで沢山の即興演奏をしたものを、後にまとめてフリードリッヒ二世に献呈したものが「音楽の捧げもの」という傑作作品である。
大バッハがピアノを演奏したのは後にも先にもこの一度であるが、音自体は高く評価したものの、高音の響きの無さ、と鍵盤のタッチが重いと指摘したと言われている。この評価を謙虚に、重く受け止めたジルバールマンはさらに改良を重ねて磨きをかけた。ジルバールマンの死後、その技術はドイツでは発展せず、彼の弟子たちがイギリスに移入され、イギリス式アクションとして発展していくことになった。
モーツァルトの幼少期に前述したピアノの原型を使ったことは考えにくい。数々の文献、モーツァルトの手紙の中に出て来る楽器は、チェンバロに近い「クラヴィーア」を用いていた。モーツァルトが晩年、自分の作品を旧式のクラヴィーアより、新しく発明されたピアノ(現代ピアノからはほど遠い楽器)を好んで弾いたであろうという考えはあながち間違えではないだろう。200年以上栄えた「チェンバロ」「クラヴィーア」を軽んじるつもりは毛頭ない。それどころかバッハと「チェンバロ」「クラヴィーア」の密な関係を知らなければ、バロック期の作品の演奏が困難なことは事実である。
だが、ここでピアノの歴史を語っている意味は現代ピアノの演奏、指導法のためのものであるから、「クラヴィーア」の深く複雑な歴史は古楽器学者に任せることにする。ただ、古楽器の知識(構造、発音の仕組み、各国での違い)が全くない、というのは音楽史の理解を妨げるだけではなく、21世紀まで存在する各時代の傑作的な名曲を分析することが難しくなってしまうのは事実である。
モーツァルトは1777年10月の演奏旅行中に父、レオポルド宛てに送った手紙の中でヨハン・アンドレアス・シュタインという天才楽器製作家のピアノに触れた時のことを熱く語っている。それまで慣れ親しんでいたシュペートの楽器より優れているとハッキリ書いている。だがここで言っているピアノ、クラヴィーアは現代ピアノのではない。
現代のピアノ(アップライトピアノ、グランドピアノ)には2つ、もしくは3つのペダルが付いているが、この頃のピアノには音を伸ばす為のペダルは付いていなかったのである。その代わりに肘を用いて現代ピアノのペダルと同じことを行っていた。モーツァルトのいうペダルピアノとは、パイプオルガンのように、楽器の下に大型鍵盤のような、ペダルが付いていた。モーツァルト自身、ハ短調「幻想曲」 KV475の冒頭部分効果的に響かせるために、鍵盤とユニゾンでペダル鍵盤を使用した、とヨーゼフ・フランクという弟子がそのように弾いたモーツァルトの演奏を素晴らしかったと回想している。
色々と説明が入り組んで来たので、少しシンプルに説明をすることにします。
1742年、現存最古のスクエアピアノが制作される。
1760年、7年戦争の影響で、ザクセン出身のピアノ製作者たちがイギリス、ロンドンへ移住する。
1772年、イギリスでブロードウッド、ピアノ制作開始。
1776年、イギリス式アクション完成。
1777年、パリでエラールがピアノ制作開始。
1770年末から80年初頭までにかけて、ウィーン式ピアノアクションを完成。
1781年、ヴァルター、ウィーンにピアノ制作工房を開く。
1794年、N・シュトライヒャー、ウィーンでピアノ制作を開始。
1803年、エラールがベートーヴェンにピアノを献呈する。
1807年、パリのプレイエルがピアノ制作を開始。
1813年、ブロードウッド、ベートーヴェンにピアノを献呈する。
1821年、エラールがダブル・エスケープメント・アクション完成。
1825年、グラーフ、ベートーヴェンのピアノを制作する。
1828年、ウィーンでベーゼンドルファー創業。
1839年、プレイエル、ショパンのピアノを制作する。
1853年、アメリカ、ニューヨークでスタインウェイ設立。
1854年、ベルリン、ベヒシュタイン創業。
1883年、スタインウェイ、ドイツ、ハンブルク支店開始。
1897年、日本楽器制作株式会社(ヤマハ)設立。
1900年、ヤマハ、初のアップライトピアノ制作。
1902年、ヤマハ、国産グランドピアノ完成。